Se connecter篝が霧を切るように駆け出した、その瞬間だった。 影月は抱えていた相楽を、まるで価値のない玩具でも捨てるかのように、無造作に放り投げた。「相楽ッ!」 叫びながら、篝は足を止めない。 だが、影月の冷酷な手から放られた相楽の体は、硬い地面に叩きつけられた。 鈍い音とともに、血の赤が広がる。 じわじわと地面へ染み込み、夜の土に吸い込まれていくその様子に、篝の胸がひやりと凍った。「な……っ」 すぐ近くにいたはずなのに。 もっと早く駆けつけていれば、助けられたのかもしれない。 そんな悔しさと、自分の無力さが、胸の奥で鈍く軋んだ。 一方、相楽を投げ捨てた影月は、赤い瞳をわずかに細め、興味深そうに篝を見下ろしていた。「……弱いクセに、戦うつもりか?」 その声は、獣のような冷たさを含んだ戯れだった。 挑発というより、気まぐれな【観察】に近い。 篝は震える手で竹刀を握り直す。 目の端には、震えながらその場に立ち尽くす灯の姿が映っていた。 妹の顔には、恐怖と混乱、そして姉に向ける不安が濃くにじんでいる。(……灯を守らなきゃ) その思いが、恐怖の中でかろうじて自分を支える柱になった。 深く息を吸い、意識を一点に絞る。 一歩、踏み込む。「――ッ!」 竹刀がしなり、一直線に影月の肩を打った。 ――バシンッ! 乾いた音が夜に響く。 だが――影月は眉ひとつ動かさなかった。「……ふむ。そう来たか」 その声はあまりにも淡々としていて、感情の揺れを少しも感じさせない。 次の瞬間、影月の姿がふっと掻き消えた。「え――」 認識したときには、もう遅かった。 ひやりとした気配が目の前に迫り、篝の肩口に鋭い痛みが走る。「っ、あ……!」 影月の爪が、制服の肩を裂いていた。 布ごと皮膚を抉られたような熱い痛みが遅れて広がり、鮮血がじわりと滲む。 思わず竹刀を取り落としかけた、その一瞬の隙を、影月は見逃さなかった。 ぐい、と強い力で腕を掴まれる。 そのまま体勢を崩され、篝の背中は地面へ叩きつけられた。「……ッ!」 息が詰まる。湿った土の冷たさが背に広がり、肺から空気が押し出される。 影月は篝の上に覆いかぶさるように身を落とし、逃げ場を塞ぐ。細身の体躯のはずなのに、押さえつける力は異様なほど重い。まるで巨大な獣に喉元を押さえ込まれたよう
相楽悠馬と数人の生徒が、深夜の帳をすり抜けるように宿を抜け出した。 宮守の忠告――「夜になったら外に出るな」。それをただの古臭い因習だと切り捨てた彼らは、興奮気味に足を速めながら、村はずれの神社を目指していた。「なあ、あれ見てみろよ。めっちゃ雰囲気あるじゃん……ホラー映画っぽくてさ」 相楽の声に、生徒たちは笑い混じりの緊張を抱えたまま、鳥居の内側へ足を踏み入れる。 その瞬間――石段の先、闇の奥で何かが揺れた。「……今、動いた?」 誰かの小さな囁きとともに、ひときわ濃い霧が彼らの周囲を包み始める。 その刹那、相楽の首筋に冷たく硬い『爪』の感触が這い寄った。「ッ……!?」 反射的に身を引こうとした、そのときだった。 霧の中に、赤い光がふたつ浮かび上がる。 それは――目だった。 夜の闇よりなお濃い黒髪に、血のようににじむ瞳。 静かに姿を現したのは、不自然なほど整った顔立ちの青年だった。 漆黒の和装に身を包み、その佇まいは異様なほど静かで、まるでこの世のものではない。 その美しさに、相楽は一瞬、恐怖を忘れて見惚れてしまう。「……おや? 俺に見惚れたか?」 艶のある声で、青年――影月が笑う。 その瞬間、ちらりと覗いた牙が、『美』の下に潜む『飢え』を剥き出しにした。「う、うわあああっ!!」 相楽が悲鳴を上げたときには、もう遅かった。 鋭い爪が喉元を裂き、血飛沫が霧の中に弧を描く。「相楽!?」「あ、ああああっ!!」 絶叫と混乱。 だが、逃げ道すら与えられない。 霧の先には、さらにもうひとつの影が立ちはだかっていた。 白銀の髪に蒼白な肌。 まるで雪の彫像のような美貌のまま、静かに微笑んでいる。「――逃がすと思う?」 紅月は、風もないのに髪を揺らしながら、生徒の一人を掴むと無造作に地面へ叩きつけた。 鈍い音とともに、その体は動かなくなる。 霧に混じって、血の香りが重く漂い始めた。 紅月は指先についた血を舐め、わずかに眉をしかめる。「やっぱり男の血は不味いな、影月」「知ってる……だが、喉の渇きには代えられない」「……女がいいな。何人か女がいたよね?」「いたな。……気になるのは、双子の姉妹だったな」 その言葉が落ちた瞬間――夜を切り裂くように声が響いた。「相楽ッ!!」 その声に
村の老人――宮守に導かれ、篝たちは古びた木造の宿へと足を踏み入れた。 宿の外観は煤けた木板に覆われ、屋根は今にも崩れそうに歪んでいる。 柱にはひびが入り、入口の木戸は軋むような音を立てて開いた。 中に入った途端、湿った空気が肌にまとわりつく。 畳にはカビじみた匂いが染みつき、廊下の壁には色褪せた掛け軸が斜めにぶら下がっていた。 天井の梁には無数の蜘蛛の巣が垂れ、提灯の明かりがゆらゆらと揺れている。 静まり返ったその空間に、生徒たちは思わず足音をひそめた。 普段なら冗談や軽口が飛び交うような場面でも、誰ひとりとして声を発しなかった。「――今夜は、ここで休め」 宮守の低く湿った声が、宿の廊下に響く。 安堵の空気がわずかに広がる――が、その次の言葉がそれをすべて凍らせた。「――ただし、夜になったら決して外へ出るな」 空気が、ぴたりと止まる。 その言葉に、篝は無意識に息を止めていた。 宮守の顔には、冗談めいた色など微塵もない。 むしろ、言いたくもないことを無理に口にしているような、苦渋に満ちた表情だった。「絶対に、だ」 言い直したその声には、どこか怯えすらにじんでいた。 理由を問う者はいない。 誰もがその目に宿る『警告』を、言葉以上に深く感じ取っていたからだ。 篝は宮守の顔をじっと見つめる。 彼が言わなかった『何か』が、この村にはある。 そんな確信めいたものが、胸の奥に広がっていった。(やっぱり、この村は――何かを隠してる) 空気が重い。 時間の流れさえ、ここだけ淀んでいるような錯覚があった。「おいおい、なんだよそれ。化け物でも出るってか?」 その空気を割るように、ひとりの男子が笑い声を上げた。 相楽悠馬――クラスのムードメーカーで、悪ふざけの得意な男だ。「ビビらせすぎだろ、マジで。じいさん、そんな真顔で言ったら信じるやつ出るって」 冗談めかしたその言葉にも、宮守は一言も返さない。 無言のまま踵を返し、宿の奥へと消えていった。「……」 誰も追いかける者はいなかった。 重苦しい沈黙だけが、廊下に残される。 篝はふと窓の外を見やった。 そこには月も星もない黒い空が広がっていた。(本当に……この村には、何かが潜んでいるのかもしれな
道を失った生徒たちは、誰ひとり口を開くことなく、霧の中を進み続けていた。 空気はどこまでも湿っていて冷たく、まるで目に見えない糸が何本も絡みついてくるようだった。 一歩踏み出すたびに靴底がぬかるみに沈み、足取りは次第に重くなっていく。 篝と灯は、互いの手をしっかりと握り合っていた。 かすかに震える灯の手を包み込むように握り返しながら、篝は霧の奥をじっと睨む。 見えない何かが、自分たちの行く手を試している――そんな直感が、ずっと胸に引っかかっていた。「篝、灯、大丈夫か?」 濃い霧の向こうから、聞き慣れた声が届く。 振り返ると、クラスメイトの結城が霧の中から歩み寄ってきた。 メガネの奥の瞳には、心配の色が浮かんでいる。「……私は大丈夫」 「私も平気だよ!ありがとう、結城くん」 灯は少し無理をしたような明るい声で微笑んだ。 結城はその笑みに一瞬たじろぎながらも、気まずそうに目をそらし、やがて篝へ視線を向ける。 しかし篝は、無言のまま首をわずかに傾けただけだった。 それでも結城は、その仕草に何かを感じ取ったのか、耳まで赤く染めたまま、何も言わず再び霧の中へ戻っていった。 灯はその背中を見送りながら、くすりと笑う。「……ふふ。まだまだ篝は私のものだもんね」 「……どういう意味だ?」 素っ気なく問い返す篝に、灯は「なーんでも」と悪戯っぽく笑ってみせた。 篝はその笑みに少しだけ眉をひそめたが、深く考えることはしなかった。(篝は、まだ何も知らなくていい) 灯はそんなふうに思いながら、そっと篝の手を握り直した。 ▽ どれほど歩いたのか、もう誰も時間の感覚を保てていなかった。 ただ、靄の中を進むうちに、空気が少しずつ変わっていくのを篝は確かに感じ取っていた。 空気が重い。 湿気はさらに濃くなり、鼻腔をくすぐる風には、かすかな腐臭が混じっている。 その時――霧がわずかに薄れた。 その先に、彼らは不意に『それ』を見つけた。「……村?」 誰かが、声にならないような声で呟く。 古びた木造の家々が、霧の中から浮かび上がってくる。 どの家も時代から取り残されたように朽ち、屋根瓦はところどころ崩れ、壁にはひびが走り、窓はすべて固く閉ざされていた。 人の気配はない。
(……今日もめんどくさい一日だったな……人付き合いも騒がしいのも苦手だし、修学旅行なんて疲れるだけだ) 篝はバスの座席に深く腰を沈め、流れていく窓の外をぼんやりと眺めていた。 車内は修学旅行の帰り道らしい浮ついた空気に包まれている。 笑い声、カメラのシャッター音、はしゃいだ声。 どれもが耳につき、それだけで気分が重くなった。「ねえ、篝。さっきの写真、見る?」 隣から軽やかな声が飛んでくる。双子の妹、灯だった。 彼女のスマホには、クラスメイトたちと並んだ記念写真が映っている。 中央で明るく笑う灯と、その隣で露骨に目をそらしている篝。並んでいるだけで、まるで正反対だった。「……別に」 ぶっきらぼうに返すと、灯はわざとらしく頬をふくらませた。「も〜、ほんと冷たいんだから」「それより、シートベルトは?」「はいはい、ちゃんとしてるよっ!」 そう言いながら、灯は篝の腕にするりとしがみついてくる。 昔から変わらない距離感だった。 煩わしい――そう思うのに、離れられると妙に落ち着かない。 篝にとって、それはもう日常の一部になっていた。「ねえ、帰ったらまた一緒に映画観よ?最近サバイバルホラーにハマっててさ」「……好きにしろ」「ほんと? じゃあ今度は朝まで付き合ってね」「調子に乗るな」 言葉とは裏腹に、篝は灯の髪を軽くくしゃりと撫でた。 灯は満足そうに笑う。 その顔を見ると、少しだけ胸の奥が静かになる。周りがどれだけうるさくても、灯さえ機嫌よく隣にいれば、それでよかった。 ――その時だった。 バスが突然、ガクンと大きく揺れて止まった。「きゃっ……」「……?」 エンジンが一度低くうなり、すぐに沈黙する。 車内の空気が不自然に止まった。 篝と灯は顔を見合わせる。「先生、どうしたんですか?」「……わからない。運転手さん?」 教師が前の座席から身を乗り出す。 運転手は何度かキーを回したが、エンジンはうんともすんとも言わない。 やがて青ざめた顔で教師を振り返った。「すまん……故障したようだ。少し待ってくれ」 たちまち車内にざわめきが広がる。「え、マジ?」「こんな山ん中で?」「圏外なんだけど!」 灯が不安そうに窓の外を覗いている。 山道が果てしなく続き、その両脇には木々が無言で立ち並んで